ドンペリ風呂に入って死にたい

躁鬱I型アラサー腐女子の役満日記

自我よいずこへ

N氏曰く、世の中の大半の人に比べて、どうも私は言われたことを改善する能力に長けているらしい。それもかなり急速に。

このように書くと一見良い事のように思えるが、果たしてどうであろうか。私ってなんだっけ。私らしさって何。Nに言われたからやめた、Nに言われたから直した、でもそれって、それまでの私と簡単に決別しすぎではなかろうか。元々の私を簡単に脱ぎ捨てて、イエスマンに成り下がってはいやしないだろうか。

自我について極めて感情的に、ヒステリックという点ではある意味女性らしく考察すると上記のようになる。私はこれに反論することで、私の自我を肯定したい。

私にも当然自我がある。他の人と比べると多少薄くて見えにくいかもしれないが、確かにある。それは私が一個の思考を持った生き物である以上至極当然のことだ。

その自我を押し通すべき時、そうでない時も、私が人間の社会に属する上で当然存在しうる。そして、Nの言う「改善」とはまさに、私が自我を押し通すことにメリットを感じられない時に採った選択にほかならない。自我がないのでは無い。私という自我が物事のメリットデメリットという点をロジカルに考察した結果、自我を忘れるという選択をしているだけなのだ。そう、忘れるって大事。別に生来の私を否定するのでも消し去るのでもなく、とりあえず今は忘れるだけ。忘れていくうちに本当に消去に至る日が来るかも分からないし、それはそれでいいと思う。ただ今は一旦生来の私を忘れて、Nとのつかず離れずの距離感の只中にたゆたうのだ。